素盞雄神社

由緒

御縁起

素盞嗚神社

当社の開祖となる黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇岩がありました。

黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、平安時代延暦14年(795)4月8日の夜、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、「吾れは素盞雄大神・飛鳥大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん。」と御神託を授け、黒珍は一祠を建て丁重にお祀りし、当社が御創建されました。

次いで素盞雄大神の御社殿を西向きに御造営し6月3日、飛鳥大神の御社殿を南向きに御造営し9月15日、それぞれ御神霊をお遷し致し、4月8日「疫神祭」・6月3日「天王祭」・9月15日「飛鳥祭」の祭禮日が定まりました。江戸時代享保3年(1718)、類焼による両社炎上のため、同12 年に相殿(あいどの:一つの御社殿)として二柱を祀る御殿(瑞光殿:ずいこうでん)を新たに建築し奉斎しました。

荒川区南千住・三河島(現:荒川)・町屋・台東区三ノ輪の区内で最も広い氏子区域61ヶ町の鎮守で、平成7年には御鎮座1200年祭が厳粛盛大に斎行されました。

御祭神

素盞雄大神(スサノオ大神) 天王祭(てんのうさい)6月3日

天照大御神の御弟神です。八俣大蛇を退治し、その尾から天叢雲剣、後の三種の神器の一つ「草薙の剣」を取り出し、天照大御神に献上した勇敢な神様。また八俣大蛇から助けた稲田姫との間に多くの御子神をもうけ、出雲国須賀という地で幸せな家庭を築いた神様として知られています。

「スサ」には「荒・清浄」の意味があり、罪・穢れ・災い・厄など身に降りかかる悪しきこと諸々を、荒々しい程の強い力で祓い清める災厄除けの神様です。別名を牛頭天王(ごずてんのう)というために当社の通称を「お天王(てんのう)さま」といいます。

飛鳥大神(アスカ大神) 飛鳥祭(あすかさい)9月15日

大国主神(だいこく様)の御子神です。別名を事代主神(ことしろぬしのかみ)・一言主神(ひとことぬしのかみ)といい、善悪を一言で判断し得る明智を持たれた神様。後世には福の神としての性格が強まり、商工業繁栄・商売繁昌の「えびす様」として崇敬されています。

『江戸名所図会』では当社を「飛鳥社小塚原天王宮(あすかのやしろこつかはらてんのうぐう)」と伝えています。

蘇民将来子孫也
(そみんしょうらい しそんなり)

神輿振り

勇壮な神輿振りを支える長柄四間半(8.1m)の御本社大神輿二天棒。その棒先でひときわ光を放つ金具に刻まれた言葉「蘇民将来子孫也(そみんしょうらいしそんなり)」。ふりかかる悪疫災厄から御祭神スサノオノミコトにお護りいただく唱え言葉です。


遠い遠い神代の昔、スサノオノミコトが遥か遠くの南の海に妻問いにでかけたときのことです。

陽はすでにとっぷりと暮れ、旅に疲れ果てたスサノオノミコトは蘇民将来(そみんしょうらい)・巨旦将来(こたんしょうらい)という名の兄弟に宿を乞いました。裕福で立派な家に住む弟の巨旦将来は、顔もやつれ衣服も汚れたその姿を見て、怪しみ惜しんで貸しませんでしたが、家も小さく貧しい生活をしていた兄の蘇民将来は、粟柄を座とし、粟の飯で精一杯のもてなしをしました。そして歳月がたち・・・。

再びその地を訪れたスサノオノミコトは兄に御礼を言い、「もしも疫病が流行したとき、あなたの家族は茅(かや)で作った小さな輪を腰につけていなさい。きっとそれから逃れ、子孫は永く栄えるでしょう。」と伝え帰りました。その後、突然二人の住んでいる村に疫病が流行りましたが、不思議なことに茅の輪をつけていた兄の家族だけは助かり、弟の巨旦将来の家は途絶えてしまいました。それ以来、村人は疫病が流行ると「蘇民将来子孫也」と口々に唱え、茅の輪を腰につけ疫病から免れるようになったということです。


「蘇民将来子孫也(私は蘇民将来の子孫です)」。宮神輿の担ぎ手も、そして御神輿のお出ましを待つ大勢の氏子崇敬者も、御祭神・素盞雄大神に御加護をいただく蘇民将来の遠い遠い子孫です。

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